一方、捜査機関側からすると、「やっていないことをやったと認める」ということをされると(厳密に言うとそれがバレると)非常に困ります。
それは冤罪以外の何ものでもなく、捜査機関に対する国民の信頼を大きく損なうことになるからです。
しかし、被疑者の中には、「やったことをやっていないと否認する」者も少なからず居りますので、捜査機関としては判断のバランス取りに苦慮することとなります。
その対応として、いくつかのものが考えられますが、その中で最も忌むべきが、「『この被疑者がやった』という結論と整合しない証拠は排除し、これと整合する自白を意図的に引き出して調書化する等して、見た目に整ったストーリーを構築する」というものです。
先般、大問題となったフロッピーディスク偽造のような極端な例は論外としても、捜査機関側によるある程度の操作はありえます。
今回のケースでは、
「犯行予告の書き込みがわずか2秒で行われたという不可解な記録が残っていた。」
↓
「被疑者はその不可解さを指摘した。」
↓
「捜査機関はその点について被疑者に追及した。」
↓
「被疑者は『一心不乱に打ち込んだ』という回答をした。」
↓
「捜査機関はそれ以上の追及を止めた。」
という一連の流れが、その現れであると言ってよいでしょう。
明らかに不自然な事実、不合理な釈明ですが、最終的にこの点はスルーされました。
このような事実を出すと、被疑者を有罪に持っていくのに不都合だからです。
大きな組織力と権限を生かして高い情報収集能力を誇る捜査機関側にこのようなことをされてしまうと、被疑者・弁護人側としてはお手上げ状態となりかねません。
被疑者・弁護人側としては、捜査機関側が誠実に仕事を遂行して、捜査の過程で不自然な点が見つかったらそこを丁寧に検証してくれることを期待するしかないのです。
そういった点が十分考慮されないまま裁判が進んでいっても、本当に被疑者(被告人)が無実であるなら、例えば尋問の過程等で、有罪のストーリーにそぐわない不自然な点が必ず出てくるはずです。
その引っかかりに裁判所が反応して、整合性を確かめるべく、細かな紐解きを試みてくれればまだ救いの可能性はありますが…ここは事件を担当した裁判官の性格にも左右されます。
そのため、数はさほど多くはありませんが、不自然な点に十分な検討が加えられないまま終結を迎える事件もあります。
(後編に続く)